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2007年07月18日
■Thinking About Barrier【19】
『障害社会と高齢社会』
還暦祝いを優に済ませ、団塊の世代の先端を夢先案内人宜しく買って出たいと願う私は未だ、健在である。
夢は見るものではなく、叶えるものである。自らの人生半分以上を歩いてきた人間にとっては夢を急ぎ足で追い掛けて捉えて手中に先ず収めるか、片っ端から叶えていくかである。私は片っ端から叶えていきたい。
高齢社会は熟年層に近づいた人間なら必ずや門は開かれる筈だ。その門はひたすら死に近づいていくのは否定できない。だが、その道のりは平坦な道になるか、はたまた凸凹道か、誰も知らない。それならば、時を開いて進むのと同様に自ら道を開いて押し進んでみたらいい、と私は思う。
私はラッキーな障害者で、自分には絶対に必要な手と脚が一本ずつでも残って、一番肝心な仕事に復帰する事が出来た、と思っている。確かに、英語の家庭教師という仕事は即、稼げる仕事で復帰すればすぐにでも収入に繋がるのは重々承知していた。生徒やその両親からも多々、復帰を望まれたが、一年がかりで私が出した答えは豪州の美術館の仕事復帰だった。英語の指導は確かに若い子達の為になる事は分かっていた。だが、自分が可愛い私は自らが生きて復帰した証が欲しかった。そこで、私はパソコン操作を障害者として習い始めたのだった。
車椅子生活者になってからの英語指導への復帰には恐らく生徒が私の家まで来ればいい事だった筈である。逗子マリーナを拠点に教えていた当時は、東京麹町から毎週通う生徒もいたのだから、反対に湘南の生徒には高輪に来て貰う事も出来た筈だ。だが、もし私がこの仕事を選んでいたら、それまで以上に私の生活は毎日、英語指導だけに終わっているに違いない。
私は美術館の仕事への復帰を決めた。そしてこの5年間の私は毎年のように、確たる仕事を遂行し、着実にその業績を残してきている。そして、これからも更なる遂行が自ら期待出来る。清水の舞台から飛び降りるつもりで成功に持っていった日本工芸の仕事は確かに素晴らしい事だった。だが、それ以後四半世紀近い間はその成功に乗っているだけで、まるで漂流しているかのように何事もなかったように月日が経っていたに過ぎない。障害の私がたった一年の休憩の後に半身不随で引き受けた仕事はみな夫々が毎年、実を結んで実績として美術館の年表に記載され続けているのである。私は過去形になりつつあった自らの美術館の仕事を見事に現在進行形にした、と自負している。それ以上に、二足、三足のわらじを脱ぎ捨てて、たったひとつのわらじを選択した事によって、私は「興味」と「趣味」と「愉しみ」を毎日の自分の生活に取り入れる事が出来るようになったのである。先ず、執筆という愉しみがある。ミクシィという場を借りて色々な人に巡り合い、様々な大好きなワンちゃん達を紹介され、あちこち行った事もない景色を見せて貰ったり、実に数多い愉しみを毎日のように味わっている。
中途障害者になるまでは、亡き父がそうであったのと同じように、私には仕事と趣味を兼ねた英語だけが足跡に付いてきていた。だが、障害に出会って、今、愉しみが倍増しているのが私には分かる。これから、迎える高齢社会も必ずや充実したものにしていけると私は確信している。
(阪田久美子)
阪田さんのBlog「脳のミステリー」http://blog.goo.ne.jp/ban-kuko/
投稿者 bfc : 13:40